あるお店の話
職場の最寄り駅近くでときどき通る道にチーズの専門店がありました。
多分、1年くらい前にオープンしたんだと思います。
店構えはスイーツショップと似てるけど派手な色のないチーズのせいか地味で、
寄り道するときしか通らない場所なので、正直ほとんど認知していませんでした。
お客さんが入っているのを見た印象もありませんでした。
なんだか様子がおかしいと思い出したのはこの夏から。
店内の電気はすべて消えショーケースは空、シャッターも半分しまっていて、
あきらかな閉店状態なのに、よく見るとそうではなかったのです。
少し開けたドアの中に置いた小さなテーブルの上にチーズ(らしきもの)が並び、
そばには白い作業服に帽子姿の販売員らしき男性がじっと座っていました。
売り声を出すわけでも派手なポップを立てるわけでもないけれど、
どうもそこで売ってるようなのです…非常に不自然なのですが。
電気の灯いていない暗い店内で、そのドア近くにだけ密接した商品と人は
街の喧噪とはまるでかけ離れたような、凍り付いた空気を醸し出しており、
不思議に思って近寄ったり足を止めるのもはばかられるような雰囲気でした。
そんなある日、まだ相変わらず半分閉店状態だわと遠目で見ていたら
薄暗い店先で不動産屋さんらしき人ともめている様子がうかがえました。
今日久しぶりにそこの前を通ったのですが、店はすっかりもぬけの殻で
「貸店舗」の看板が上がっていました。
そうか、やっぱりもう出て行ってしまったのです。
チーズ専門店(それもヤギだったらしい)なんて、やっぱり厳しかったのかな。
ここは阪神間でも大人気の一等商業地です。
そのうちすぐに新しい店が入ることでしょう。
そんなことを思ってふと視線を向けた先の街角に…白い作業服に帽子を被った人の姿が。
小さなクーラーボックスを首から下げたまま、じっと立っていました。
店があった場所の目と鼻の先です。
彼は声を上げることもなく、10mほど離れたrindenにも読めないくらいの
これまた小さな文字で何かを書いたボードを抱いて。
でも、そこには執念の炎はなく、どこか托鉢僧にも似た清らかさすら感じとれます。
夕方の買物に出て来た人や、帰路を急ぐ人たちがそこに足を止めることはあるのでしょうか。
ここからは私の勝手な想像なのですけど、
彼はきっと自分で作るこだわりのヤギのチーズに絶対の自信を持っていて、
なおかつどうしてもあの場所で売りたい。
だから、その味がわかってもらえるまで、あの場所をテコでも動かないつもりなのだと。
レストランルートを開拓するとか、インターネットで通信販売するとか、
メディアを利用してパブリシティ打つとか、活性化の方法は他にあると思うのに、
それは超えられない一線なんでしょう。
いつかきっと、その思いが花開くときが来ることを祈らずにはいられません。